クソ親父と思ったこともあったけど


この夏の七月二十九日、弔問のため九十九里に赴いた。

弔問客は四十人くらいであったが、私にとってこの葬式は、抑えがたい悲しみと感動が相俟って、心に強く焼き付いた。

故人は、当社社長・中川の義弟・菊崎氏である。

中川の説明によると、故人は四十九歳。

妻(中川の妹)、高校三年の息子、そして中学二年の娘を残して逝ってしまったのである。

故人は二十五日日曜日の昼過ぎに、不運にも誰もいない自宅で倒れてしまったという。

奥さんはその日たまたま仕事に出ていた。

成東高校の三年生で、サッカー部のキャプテンを務める長男は、練習のためやはり出ていた。

片貝中学二年の長女も、所属するバスケットボール部の活動で出かけていて、家族全員留守の間の出来事であった。

私が中川からその知らせを受けたのは、翌二十六日の朝であった。

午後には、通夜は二十七日の夜、葬儀は二十八日と決まったようだ。

ところが、夕刻過ぎに再び中川から電話が入った。

「実は、誰もいない所で死んだ場合は、司法解剖をしなければならないそうです。

ですから、まだ葬式の日程を決められませんので、決まり次第また連絡いたします」

とのことだった。

司法解剖の結果、死因は心不全と分かった。

日程を改め、通夜は二十八日午後七時、葬儀は二十九日午前十一時から行われることになった。

その間、中川から菊崎氏の横顔を少し聞かされていた。

北海道出身で、高校時代は野球部に所属し、優秀な選手であったこと。

高校卒業後は野球ではなく、料理の修業のためにドイツへ三年間留学したこと。

お酒が好きだったこと……。

それにしても、四十九歳という若さで亡くなった本人の無念を思うと、心が痛む。

二十九日は、小笠原諸島付近に大型の台風があって、珍しく西にゆっくり進んでいるとのことだった。

その影響で、朝のうち房総半島は時折にわか雨に見舞われる悪天候だったが、十時前には雨も上がり、びっくりするほど澄み切った青空が広がった。

真っ白な浮き雲、灰色の雨雲が、時折夏の強い日差しを遮りつつ勢いよく流れていった。

十一時少し前に、葬式の会場である九十九里町片貝の公民館に入った。

会場の大部屋は畳敷きで、棺の置かれた祭壇の前には、すでに遺族と親戚の方々が座していた。

私は中川夫婦に黙礼をして後方に並んでいる折りたたみ椅子に腰掛けた。

祭壇の中央では、故人の遺影がこちらを向いてわずかに微笑んでいる。

ドキリとするほど二枚目で、その表情からは男らしさが滲み出ていた。

会場には私のほかに高校生が五、六人、中学生の制服を着た女の子が数人、そして私のような弔問客が三十人くらい座していた。

広間に並べられた座布団の席はまばらに空いていた。

葬式は十一時ちょうどに始まった。

右側の廊下から入ってきた二人の導師が座すと、鐘の音とともに読経が始まった。

後ろから見ると、二人ともごま塩頭を奇麗に剃っていた。

読経の半ばで焼香のためのお盆が前列から順々に廻されてきた。

私も型通り三回故人に向けて焼香し、盆を膝の上に載せて合掌した。

しばらくして全員の焼香が終わると、進行係の人がマイクでボソリと「弔辞」とつぶやいた。

名前は呼ばれなかったが、前列の中央に座っていた高校生らしい男の子が立った。

すぐに故人の長男であることが分かった。

私には、彼の後ろ姿しか見えないが、手櫛でかき上げたような黒い髪はばさついている。

高校の制服らしき白い半袖シャツと黒い学生ズボンに身を包み、白いベルトを締めていた。

彼はマイクを手にすると故人の遺影に一歩近づいた。

「きのう……」。

言いかけて声を詰まらせ、気を取り直してポツリと語り始めた。

「きのうサッカーの試合があった。見ていてくれたかなぁ」。

少し間をおいて、

「もちろん勝ったよ」。

二十八日が葬式であったら、彼は試合には出られなかった。

司法解剖で日程が一日ずれたので出場できたのである。

悲しみに耐えて、父に対するせめてもの供養だとの思いが、「もちろん勝ったよ」の言葉の中に込められていたように思えた。

「もう庭を掃除している姿も見られないんだね、犬と散歩している姿も見られないんだね」

後ろ姿は毅然としていた。

淋しさや悲しみをそのまま父に語りかけている。

「もうおいしい料理を作ってくれることも、俺のベッドで眠り込んでいることも、
もうないんだね……」

あたかもそこにいる人に話すように、

「今度は八月二十七日に試合があるから、上から見ていてね」

その場にいた弔問客は胸を詰まらせ、ハンカチで涙を拭っていた。

「小さい時キャッチボールをしたね。ノックで五本捕れたら五百円とか、十本捕れたら千円とか言っていたね。

二十歳になったら『一緒に酒を飲もう』って言ってたのに、まだ三年半もある。

クソ親父と思ったこともあったけど、大好きだった」

涙声になりながらも、ひと言、ひと言、ハッキリと父に語りかけていた。

「本当におつかれさま、ありがとう。

俺がそっちに行くまで待っててね。さようなら」

息子の弔辞は終わった。

父との再会を胸に、息子は逞しく生き抜くだろう。

_______
月刊「致知」
井坂晃(ケミコート名誉会長)のお話より
q01407

スポンサーリンク
AD googleアドセンス
AD googleアドセンス
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存
スポンサーリンク
AD googleアドセンス