私の父は、若くして亡くなりました。


私の父は、若くして亡くなりました。
同僚が机に突っ伏して倒れている父を見つけた時、
まだ父は42歳。私は、16歳でした。

あの時の記憶は、鮮明です。
母と私は、台所で夕飯のスパゲッティを作っていました。
イタリアンソーセージをきれいに焼いて、バジル、オレガノ、
パセリ、タマネギとニンニクのたくさん入ったトマトベースのソースをぐつぐつと煮ているところでした。

電話機を耳にあてる時、手についたニンニクの匂いを
今でも思い出すことができるほどです。

母のアーリーンにかわってほしいと言う電話の向こうの
男性の低い声は聞き慣れない声でした。
混乱を隠せないその声に、恐怖で私は胃に痛みを覚えました。

その年は、私たち家族に、嫌な事ばかりが起こった年でした。
父は、5月にカリフォルニア州で働いている時に、
ひどいうっ血性心不全で入院しました。
医者に、余命が短いと宣告され、父のもとで過ごすために母は、ニュージャージー州からカリフォルニアへ飛び立ちました。

三人の兄弟姉妹と私は、叔母と一緒に家に残り、
数週間の留守番をする事になりました。

母が留守の間に、ペットの犬が激痛を伴う脊椎骨折で、
局部麻痺になりました。獣医になす術がないと言われ、
泣く泣く安楽死させました。

母は2週間以上、カリフォルニアに滞在しました。
父とともに帰宅した日、車から降りた二人を見て、
私たちは言葉を失いました。

父は約20キロも痩せ、青白い顔をしていました。
たった少し歩いただけで息は切れ、おびただしい汗を
かいていました。

でも一番驚いたのは、歩く事ができず、
右腕のあがらない母でした。

次の日、母は病院に行き、10日後には、
多発生神経硬化症と診断されたのです。
母の右半身がもとにもどるかどうかはわからないと
言われました。

それから、私たちの人生は一変したのです。
私たち4人、ティーンエイジャーの兄弟姉妹は、
その時から両親の世話をすることになりました。

父は、療養して体力を取り戻すために1ヶ月間、
ニュージャージーの家にいました。
11月の終わりに開心手術が予定されていましたが、
仕事を再開するために、7月のはじめにカリフォルニアへ
戻って行きました。

私たちは、できるだけ早くカリフォルニアへ引っ越せるように
準備しました。引っ越しの荷物をまとめ、引越し屋を頼んで、
この国を東から西へと横断するまでの期間は、6週間。

母が荷造りのできる状態ではなかったので、
私たち子どもの仕事となりました。
2回ほど、中古品セールをして必要ない物を売りました。
たった一人、運転免許をもっていたのは母でしたが、
とても運転できる状況ではなく、2台あった車も
1台売却しました。

そして、運転してくれる知り合いをお願いして、
残った車で西へと移動したのです。引っ越しの日は、
すぐにやって来て、私たちは、横断の旅に出ました。

カリフォルニアに到着した私たちは、まるで外国にやってきた
旅行者のようでした。学校がはじまる9月の始めまでに、
私たち子ども4人は、引っ越しの荷をほどき、
だいたいの整理は終わっていました。

その頃、一匹狼で気分屋のティーンエイジャーだった私は、
音楽に慰めを求めていました。
4つの楽器を演奏していましたが、特に学校が終わった後には、何時間もピアノにむかいました。

夕方になって、父が仕事から帰宅すると、
いつも私のピアノを聴き、あの曲が聴きたいと
何度も何度も、同じ曲を父のために弾きました。
それは、それから何年も続いた習慣となりました。

実を言うと、私はそれに憤慨していました。
父をあまり好きではありませんでした。
父とは、しょっちゅう口論になり、私は、
思春期の不安や怒りの矛先を父に向けていました。

ピアノを演奏するのは大好きでしたが、自分の選んだ曲を
弾きたかった・・・
父の喜びのために同じ曲を何度も何度も頼まれるのは、
嫌でした。

あの日の午後、父が帰って来たらまたあの曲を、
4〜5回は弾かされるのだろうなあと思いながら、
自分の好きな曲を練習していました。

ピアノの演奏をした後、台所に行き、夕飯の準備をしました。
だから、あの電話に出た時、手がニンニクの匂いだったのを
覚えているのです。通常は、母が電話に出るのですが、
母がすわっていた場所からは、届きにくい場所にあったので、
私が電話に出ました。

胃に痛みを感じながら、あの困惑した男性が
母に父の死を告げているのが聞こえました。

それから数日間、数週間は、ぼんやりとしか覚えていません。
ほとんどの事は覚えていないのですが、
ただひとつ父の葬儀で、大好きだったあの曲を演奏しなくては、と思っていたことだけは、よく覚えています。

とうとう葬儀の日がやって来ました。
過去に、あの曲を何度も何度も演奏して暗譜していたにも
かかわらず、私は楽譜を持って行きました。
緊張して忘れてしまうかもしれない、そう思ったからです。

葬儀がどんな風に進行していったのか、覚えていません。
でもピアノの前にすわっている私に、教会のステンドグラスの
窓から太陽の光が差し込んで、気持ちが落ち着いて
行ったことを覚えています。

私は楽譜を開き、ピアノを弾き始めました。
もう何年も楽譜が必要なかったあの曲ですが、
もし緊張で忘れてしまったら、見ようと思っていました。

ずっと前に、まだ楽譜が必要だった頃、この曲を弾く間に、
ページをめくるために止まらなければいけない所が
2箇所ありました。楽譜は本になっていて、
1枚の紙ではなかったので、ページをめくる必要が
あったのです。

あの葬儀の日、ピアノを弾きながら、こらえきれずに
涙を流しました。何年もの間、父ともめた事、
反抗的だった日もあった事、そんなことを
思い出して涙があふれました。

涙にくれながら、記憶をたどって演奏を続けていました。
そしてページをめくらなければいけない箇所に来た時、
驚く事が起こりました。

私の肩に、誰かの手がおかれたのを感じました。
そして私はピアノから手を離していないのに、
目の前でページがめくられたのです。

私の目には、隣に誰も座っているのが見えないのに、
その存在を感じました。ページがめくられるのを見ながら、
肩の手の重みを感じていました。

演奏が終わり、楽譜を閉じる時にも、涙が頬を伝って
流れていきました。こぶしをぎゅっと握りしめたその時、
私の耳に父の声が聞こえたのです。

『サンキュー。 アイ・ラブ・ユー。 グッバイ。』

父の死から38年、何千回もあの曲を演奏しました。
再び父の声を聞く事も、ページが勝手にめくられることも
ありません。

でも、あの時の父の声、父の手、父の最後の言葉を
思い出す事無くあの曲を弾く事は決してないのです。

世界が愛でいっぱいになりますように・・・・

z00705

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